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2011年3月の投稿

2011年3月31日 (木)

基準値って何だろう?

最近は毎日のように放射線,放射能のことがテレビ等の報道で話題になっています。そして,その時に出てくる言葉が基準値です。

私の気のせいかもしれませんし,情報不足のせいかもしれませんが,以前は何ミリシーベルトなどの単位でよく言われていたようですが,最近は何倍という基準値との比較で,放射能漏れなどがあらわされることが多いように感じます。

先日テレビの解説者が,「基準値の何倍になったとかで騒いでいるが,諸外国が核実験を行っていた時は現在の数万倍の放射能(線?)が当り前だった。数倍程度で騒ぎすぎだ」みたいなことを言っておられたと思います。

では,基準値ってなんでしょう。数倍程度で騒がないでいいくらいの基準値?

じゃあ,最初からもっと基準値が高くていいんじゃないじゃないの?と思ってしまいます。

すると,解説者も「もともと基準値が低すぎたんだ」と言われます。

じゃあ,どんな基準で基準値を決めたの?頭の中は??だらけです。

そもそも,広島に核爆弾が落とされて,60数年。多くの人がなすべもなく後遺症により命を落としたと聞きます。

核は手に負えない相手と思っていました。放射線の影響についても,このような手に負えない相手に対して,どのような検査等をして人体への影響値を計測していったのでしょう?

結局,基準値自身の信頼感って大丈夫なの?

このような重大な被害を起こしてから,実は高すぎただの低過ぎただの議論は逆に基準値の信頼を低下させ,同時にそれまでの原発関連の技術というか,科学というか,そういうものの信頼を低下させてしまいます。

信頼できない,また信頼していいかどうかわからない人が「大丈夫,安心」と声高に叫んでも,「本当?」と思い,「まあ,とりあえず,当分は被災地の品物は避けておこうか」となってしまいそうです。

この「とりあえず」によって,被災地の多くの人が経済的二次災害と呼べるような被害を受けています。

安全と危険は,ある意味,表裏をなすものと思います。

ただ,ただ,「安全,安全」「大丈夫,大丈夫」と唱えるのではなく,本当に危険なのはどういう状況でどこなのか?

言葉にオブラートをかけ,わかりにくくするよりも,危険を明確にすることこそが,逆に安全を浮かび上がらせることにつながると,私は思います。

2011年3月29日 (火)

聴くということ

「聴く」簡単なようで難しいのが,この「聴く」ということ。

私のところへ相談に来られる方の中には「相続について相談がある。財産を独り占めしようとしている者がいる」「あいつに自分の財産を渡さないようにするにはどうするか?」「離婚したいが,できるだけ慰謝料を取りたい」等といったものも珍しくありません。

法律職としては「法定の相続割合は…」「遺留分の配慮をして…」「一般的な額としては…」等と答えてしまいます。

しかし,最近,それだけでよいのかと思うことが多くあります。血相を変えて「○○を訴えてやる」などと,行政書士では受けられないような相談を持ちかけられた時のことです。

せっかく来られたので一応話を聞いてみることにしました。法的な係争であれば,私にはアドバイスできないことを事前に説明し,とにかく聴くことに徹してみました。聞いた後に適切な弁護士さんを紹介しようという気持ちでした。

「なるほど,そう思われたのですね」「そのことをつらく感じられたのですね」「そういうことをされれば,誰でも怒ると,そう思われるのですか」

事実関係を聞いているつもりでした,相談者は感情的な話をどんどん続けてこられます。そういった相談者の感情を逆なでしなように気持ちに添うようにしながら一生懸命話を伺いました。

「~~であれば訴えられるのか」

行政書士ではそういった争いには力添えになれないことを事前に話をしていても,感情的になればついそういった言葉が相談者から出てきます。ただ,そこで機械的に私にはそういった判断はできませんと言えば,こちらに怒りの矛先が向いてしまいかねません。

「~~があったので,訴えたいくらい怒り心頭ということですね」

そのように切り返してみました。その後もそういった発言にはそのように無難に切り返しながら話を聴いてみました。

すると,「訴えるとか言ったが,もうちょっと考えてみるわ。よう話を聞いてくださって,自分の気持ちもよくわかってくれたから少し気分が楽になった。何かあったらまたよろしく」

そう言って帰られました。

自分の何らかの主張があった時,それがかなえられない,また阻害された時,主張の核心である部分が怒り,悲しみなど様々な感情の衣を重ねて羽織っ
ていきます。

そして主張は大きな塊となり「訴えてやる」との感情の大砲となって発射されたようです。

相談を受けるものがその感情の動きを理解し,その感情の衣を一つ一つ取り除いていくことで,相談者は冷静に主張を見つめなおすことができたのでしょう。

ある意味偶然の産物と言えるかもしれないこのケースでしたが,今後,相談を受けるにあたり,「聴く」という重要性をしっかりと感じさせられたケースでした。

2011年3月28日 (月)

共有できる幸せ

被災地で多くの家族が離れ離れになっています。

再会の場面では「本当によかった」としみじみ思います。

とある,障がいのある方と話しました。

再会の場面を見て「いいなぁ」と言いました。

幼いころから施設に預けられて,家族とずっと離れて生活しています。小学校の卒業式も振り返っても親の姿はなかったそうです。

何が幸せ?いまは幸せ?

いろいろ幸せについて考えたことがあります。

何が?ではなく,ただ,一緒にいる。空間を共有できる。それそのものが幸せだったんだなぁと考えさせられました。

2011年3月27日 (日)

刑務所の暮らしを聞いてみて

先日,刑務所におられた元国会議員の方の講演を聞いてきました。

福祉をテーマにしたお話でしたが,ショッキングだったのはその刑務所の暮らしぶり。

歩き方から管理されるという様子。ただ,ショッキングだったのはそこではありません。起床,就寝,食事の時間,作業中の私語禁止といった管理ぶり。

どこかで見たような,聞いたような…。そう,障がい者の福祉施設です。最近ではさすがに私語禁止まではないかもしれません。

ただ,以前,ある施設で大きな柵ができ,利用者の方はそこに囲まれる生活を強いられることになりました。

なんでも,脱走した人がいるからだということ。

どうして脱走したのか理由を職員に聞くと

「ここが嫌だからじゃないか」

そこで,どうして嫌になるのかを聞くと

「我慢が足りないから」

と言う。

講演のことに戻りますが,ある障がい者施設では新入職員が1週間利用者とともに生活すると聞きました。

利用者とともに同じ部屋で寝食を共にする研修?らしいです。

1週間終了後,新入職員は号泣するらしいです。

「やっと解放される」

これがその時の第一声らしいです。

さて,刑務所での生活では管理第一です。しかし,施設の生活もさきほどの「やっと解放される」が象徴する管理第一の生活なのです。

刑務所の暮らしを聞いてみて,刑罰を受ける人の生活の場と何も悪いことをしていない人の生活の場の差があまりないように感じて,ひどいショックを受けました。

2011年3月25日 (金)

死刑囚は被災をどう受け止めるのか

秋葉原の事件の死刑が地裁にて言い渡されました。

この被告人を被災地に連れて行って,多くの人が大変な状況の中助け合っている様子を見せつけてやりたいと思いました。

そして,一緒にいろいろな活動に参加してもらって,人の心に触れてほしいと思います。

孤独を感じた。このネット時代の中で生み出された孤独感のようなことも書かれていたような気がします。

安らぎ場である掲示板を荒らされた。

何もかも地震と津波によって奪われた人たちの悲しみはこんなものじゃないのではないでしょうか?

安らぎ場を荒らされた。そういうなら,今生活の場が荒野となった方々の現実を見てほしい。そして,諸外国からも称賛の声がやまない,被災地の皆さんのひたむきで礼節高い姿勢。

自分の心の閾値がどれだけ低い位置であったか考えてほしい。

今までも感じたことですが,死刑を言い渡された人は,執行される前に奉仕活動を義務付けてほしいと思います。少しでも人間らしい心を持ってから,天界へ旅立ってほしいと思います。

2011年3月24日 (木)

希望を信じて

目の前に広がる荒野と化した親しみのある土地

心の中は希望の見えない真っ暗な渦が渦巻いている

空を見てみた

太陽の光がまぶしく目に入ってくる

春のおとずれ。

まだ肌寒い空気の中で,きらめく太陽が優しくそう語っているように見えた。

よく見ると

荒野の中に小さな緑が芽吹いている

よく耳を澄ますと

子どもたちの透き通る笑い声が聞こえてくる

そう

私たちは多くのものを失った

でも,失っていないもの 失ってはいけないものがある

希望の光

真っ暗と思っていた心に光がまだあることを

小さな芽や子どもたちの声が教えてくれた。

その光を大きくするものは勇気

無邪気な子どもたちの笑顔が,もう泣き顔に変わらないように

勇気を持って立ち上がろう

私たちが失ったと思っていた希望

決して失っていない希望を信じて

2011年3月23日 (水)

こころはみえない。そしてこころづかいで相手がわかる。

昨日,こんな話を聞きました。

車いすを利用し,常時介護が必要で,医療的な配慮も必要な人が病院に着いた時のことです。

その人はそういう状況を配慮していただき,病院前の障害者用の駐車スペースに停めさせていただいていたそうです。

ところが,昨日は家族の都合もあり,自宅の車ではなく,有償運送という福祉の業者に移動をお願いしました。

駐車場に到着し,いつもの場所に停めさせていただこうとしていたところ,「そこには停めるな!」との指示がありました。

その駐車スペースには特定の業者しか駐車を認められないとのことです。

その障がいのある人個人は停めていいと言われている人なのですが,というよりも,離れた場所にある駐車場から,ストレッチャーに乗って移動するのは季節がらもあり,大変なことなのです。

事情を話しても,「きまりだから」といって受け付けないのです。

そして,結局,停めることは拒否されたそうです。

その後,その人の親族が病院に状況を聞くために連絡してみました。

いろいろと状況や事情を話しても,ほとんど耳を貸さない。「自分のところの車は許可されているのだからそれで来ればいい」とも言われたそうです。

親族が送迎できなければ,移送業者に頼むしかないわけで,その業者に「うちの車を使ってください」と言えるわけありません。

それでもとお願いすると,「本人を見せにこい」と言われたそうです。

多くの優しさを謳い,患者第一を掲げるその病院。

しかし,窓口にいる人たちの「心が見える」対応によって,それが大きな張りぼてに見えてしまいました。

2011年3月22日 (火)

どうしたんですか?セリーグ??

このところ野球ネタで続けていますので,今回もこの件でつぶやきます。

野球業界を今まで批判してきました。ただ,今回はセリーグに注目しています。

というのは,パリーグとセリーグでは対応が違いすぎると思われるからです。

本拠地の問題もあるかもしれませんが,今回の地震はそんな地域性をかたっているような事件ではなく,全国的規模の衝撃的事件と思われます。

その観点から,本拠地等の都合は除いて考えています。セリーグは開幕の日を少しずらして29日にすると言われています。そのずらした根拠は何なのかわかりません。

パリーグは4月12日開幕としています。これで解決策と言えるかはわからないところですが,震災から1カ月といった区切りを付けたうえでの開幕とも考えられます。

パリーグは4月中のナイターは実施しない方向らしいです。

しかし,セリーグは4月3日まで。この時期までに電力が回復するというのでしょうか?

電力が回復しても,被災地の生活だけでなく,復興にも電力は必要と思われます。

もう少し,減灯ナイターなどと中途半端なことではなく,しっかりとした協力を考えられてはいかがでしょうか?

どうして? どうしたんですか?

そんな思いが頭を渦巻いています。

2011年3月21日 (月)

それでもプロ野球は行うのですか?

ナイターやドーム,それ以外の部分でも開催するだけで多くの電力を消費するプロ野球。

ひと試合で何百,いや千単位の家庭の電力を消費するらしいですね。

スポーツは確かに人々を励まし,希望を与えるものだと思います。しかし,人々の命をつなぐ電力を消費して,誤解を恐れずに言えば,人々の命を削ってまで開催するものなのでしょうか?

私もスポーツ等のなんでも自粛には反対です。しかし,開催の場所や影響など様々なバランスを考えての上で進めるべきです。

そしてその開催の理由が,もしも,野球業界の持続だけを考えてのことであれば,あまりに,現状を理解している行動だとは思えません。

関西で行い,募金を行い,収益金の一部を寄付する。そういった被災地支援の気持ちをさらに啓発していくような活動が望まれます。

延期することによって業界が経済的打撃を受けるのであれば,もう,当然にされているとは思いますが,そういうことを含めて選手会の皆さんと協議され,人々から「さすが!」といわれる結論を導き出してほしいと思いました。

2011年3月18日 (金)

プロ野球の開幕について思うこと

プロ野球のセリーグが予定通り開幕するとのことです。私は前にも言ったようにスポーツはスポーツをすることで役割が果たせる部分があると思っていますので基本的に賛成です。開催にあたり収益の一部でも募金するなど積極的な支援の姿勢が望まれます。

ただし,東京ドームなどでも行うともれ聞きました。また,ナイターも行うとのこと。これは本当でしょうか?

現在節電が叫ばれています。開幕を予定通りすると言っても,開催する場所は西日本に限るべきです。そのために,日程を変更するしかないのであれば,それはいたしかたないことでしょう。

どうして開幕するのか?人に夢を与えるためなのか?商業的な問題(儲け優先?)でしょうか?

今回の原発事故の原因にひとつに合理的経済効果で「建設ありき」で進められたようなものもあったのではないかという気がしてなりません。

プロ野球の儲けのために,被災者の分の電気まで浪費するのであれば,考えてほしいと思いました。

高校野球も選抜を行うとのこと。東北高校も参加するそうですね。高校球児たちのひたむきなプレーは多くの人に勇気や希望を与えてくれるものと思います。

2011年3月17日 (木)

どうして届かない救援物資

被災地に救援物資が届かないとの報道が流れています。

あれだけ,様々な地域で報道されているということは,それぞれの地域に報道陣が到着しているということでしょう。

それなのに,救援物資はなぜ届かないのでしょうか?

「ここにも灯油がなく,食べ物も底を突く状態です」

との報道。なぜ?報道陣がいけるのに,救援物資はいけないのか?

理由はあるのでしょうが,テレビを見て不可解に思ったことでした。

2011年3月16日 (水)

放射能の被害を受けないための生活について教えて

原発の事故の報道が続いています。現状をみると,被害の広がりこそ想像されますが,早期の問題解決はなかなか考えられない状況のようです。

家を締め切る,肌を露出させない,マスクをするなどの放射能から身を守る方法がマスコミから聞かれます。着ていた服はポリ袋に入れるなどもあります。

ただ,様々な情報が入り乱れている中で,どうしたらよいのかはっきりとわかりにくいのではないかと思われます。

体の障がいがある方のこと,病気の方のことなどの配慮がずいぶん増えてきて,それらも報道されることが増えてきて本当に感謝しています。

ただ,言葉のみの説明では理解の難しい,知的に障害のある方,幼い子ども,認知症等の高齢者の方などはどうしてよいか具体的にわかりません。

津波の映像,大きく建物が揺れる映像,悲惨な状況となっている被災地の状況,原発が爆発する映像など不安を掻き立てる映像はたくさん流れています。しかし,完全とは言えなくても,こうすれば安心というような,安心を提供できる映像も増やしていってほしいと思います。

例えば,今の原発関連でいえば,外出の時の服装,持ち物など,帰ってきてからの一連の行動,外出時の服や靴の処理の方法,部屋にいるときの注意することなど映像化してわかりやすく報道してほしいと思います。

2011年3月15日 (火)

スポーツや音楽に期待すること

プロスポーツや文化的活動が自粛の流れに動いています。こんなときにこんなことしている場合か!という声もあるかもしれません。

昨日でしたか,阪神‐巨人戦が行われました。募金が100万円ぐらい集まったそうです。

スポーツや音楽は人を励ます力があると言います。でも,今はその力以外の力である人を集める力も有効ではないかと思いました。

危険がなければ,オープン戦,コンサートなどできれば東日本の電気に負担をかけないように西日本で行って,募金を募るのはどうでしょうか?

スポーツや音楽を楽しもうとすること,それ自体が胸が苦しくなる行為かもしれません。しかし,今,人を集めるその力を有効に発揮することも一つの方法かもしれないと感じました。

2011年3月14日 (月)

安全の基準は何の基準???

このたびの東北・関東地方の地震で原発の危険がクローズアップされました。想定外とされる今回の事象でいろいろ考えさせられました。

原発が建設される際,あらゆる事象を想定していくことと思われます。しかし,それは建設するか,しないか,できるか,できないかではなく,「建設ありき」の議論ではないのでしょうか?

議論の際に様々な危険要因が持ち上がると思います。慎重派はあらゆる場面,現在までの状況から考えられるリスクにさらに少し上乗せする形で危険要因を訴えていたと思われます。しかし,推進派は「そんなこと言っていては前に進まない」と言って,可能性の低いと思われる危険要因を予想し,それを排除する。

「建設ありき」の議論では「慎重派」の意見は「重箱意見」だとしていつしか少しずつ隅に追いやられ,「推進派」の意見が主流となり現場を動かしていく。

今回は原発ですが,他のいろいろなものの建設等で同じような議論がされているのではないでしょうか。

今回の報道の中で流される本当に悲しく,胸詰まる参事の数々。同じことが繰り返されないようにするには,「利害」に重点ではなくあくまでも「安全」が中央に置かれながら議論がなされることを願います。

2011年3月13日 (日)

東北・太平洋沖地震に際して思うこと

連日地震の報道が続いています。どの局も地震の報道です。確かに私も地震の報道をずっと見ています。事実の把握は大切で,被災地の方だけでなく,自分たちの今後の生活への影響も考えていかなくてはなりません。

ただ,気がめいって,気分転換をしたいとふと思う時,それでもどの局も地震の目を覆いたくなるような場面が流れています。

また,ネット上ではどこかの局のアナウンサーなのかわかりませんが,考えられない暴言を吐いている状況も流れていました。

被災地の方だけでなく,政治も現場も,この未曽有の状況に混乱しています。情報も混乱しています。放送局も何を今報道として流すべきか考えながら行っていることでしょう。

希望としては役割分担を望んでいます。すでに多くの方も言われているようですが,どの局も並行して地震の情報を競い合うように流すのではなく,どの局にしたらどの情報を手にすることができるといった役割分担をして,視聴者が情報を得られやすいようにしてほしいです。

子どもたちのために教育番組は継続してほしいです。幼い子どもたちにはこの現実は厳しすぎます。

また,記者会見に際して情報が少なすぎることを非難するような報道もありました。力を合わせるべき時なので,できるだけ,今は誰かを非難するような報道は,ネットを含めてやめたほうがいいと思われます。

ただし,報道は国などの権力が国民のためにきちんと働いているのかをチェックする役割もありますので,その役割を果たそうと努力しておられるのだなぁと思っています。

さらに,今回,そういった中で時折行きすぎる報道に対して,それをチェックする役割をネットが果たしているのではということに気付きました。

チェーンメール,誤った情報の垂れ流しなどネットには危険もありますが,国民のために働いている政治家をチェックしている報道を庶民視線からチェックする有益性も併せ持っていると感じました。

2011年3月12日 (土)

後見制度を利用して失うもの!?

成年後見制度は,判断能力が低下している人を不当・不法な契約から守り,また,適切な福祉サービスを選択し契約を代わって行う等,当事者を守っていく制度として非常に有効な制度です。

しかし,この制度にも問題が指摘されています。私自身もこれから述べる点は非常に問題視しています。

それは,後見制度を利用することで奪われることがあることです。何を奪われるかと言うと,それまで持っていた社会的地位や資格等です。

後見制度の中でも補助類型の場合は奪われることはありませんが,保佐,後見類型の場合は上のような地位,資格がなくなってしまいます。

どのような地位,資格時になる方もおられるかもしれませんが,今日,問題視したいのは後見類型の対象となり,被後見人となるとなくなってしまう選挙権の問題です。

選挙権は,国民が自分の生活を守るために,政治に関与する力を与えてくれている権利とも言えます。その権利がなくなってしまうわけです。同じ国民でありながら自分たちの生活がどうなっていくのか,傍観するしかないのです。

一方で,「どうせ選挙権があっても行けない」「自分で選挙する相手を選べないのだからあっても同じ」「逆にその人の選挙権を知人,他人が勝手に悪用するのではないか?」との意見もあるようです。

現実的には上のような意見も一理あるのかもしれません。しかし,権利と言うものは現実的だけでなく理念,思想的な部分もあるのではないでしょうか?

「どうせわからないのだからいらない」この言葉は現実的かもしれませんが,この言葉自体が権利侵害です。本人の持つ権利を,理解力や判断力などの外的要因だけで他人が判断していくのは基本的におかしいのではないでしょうか?

選挙に行くか,行くことができるのか,できるのか,できないのかなどは,自分で決めさせてほしい。そう思います。

「どうせ…」という現実的側面ではなく,問題は,行ける・行けないに関わらず,制度を利用する前は権利を持っていたという部分のです。後見制度を利用する前はこの権利を奪われていないのです。当然ですけど。

本人の権利を擁護するはずの後見制度を利用してみると,国民の基本的権利とも言える選挙権(参政権)が奪われる点が問題なのです。

この部分には,ちょっと小難しいことを言って恐縮ですが,日本の憲法が大事にしている国民主権・基本的人権の尊重・平和主義という3つの柱のうちの2つ国民主権と基本的人権の尊重が侵害されているわけです。

人権の種類の中に参政権(選挙権)があります。そして主権とはこの国のことを決めると言うことです。国民は選挙を通じて国のあり方を決めていくのです。

選挙権はこのように非常に大事な権利なのです。一刻も早く,この選挙権を失うといった部分の法の改正が望まれます。

2011年3月10日 (木)

後見人の役割とお仕事

本来の後見業務は権利擁護(~がしたい:希望)が第1となります。
 
 その「~がしたい,またはしたくない:希望」を現実化するために,こうすればいいのでは?と情報等を提供するのが身上監護となります。

 その現実化のためになんぼかかる?というのが財産管理ということです。

 後見人が後見業務を進めていく道筋は,基本的にそういう順番なので権利擁護が一番大切なのです。

 しかし,今まで重要視されてきたのは「なんぼかかる?」といった財産管理。逆にそれだけきちんとこなせば,家庭裁判所では優秀な後見人とされていました。

 それでは発想が逆なのでは権利も十分に保障されないおそれがあります。

 しかし,現況では,少しずつ身上監護の大切さは理解されてきました。

 障害者福祉の現在の流れを見ていくと,やはり,重要とされることは本人の思いであります。本人の思いとは後見業務でいう身上監護の前にある「~がしたい:希望」です。

 身上監護を大切にするためにはその根底にある本人の願い,思いを大切にする必要があるという流れになるのは必然ではないでしょうか?

 そう考えると,身上監護だけではなくが権利擁護が大切であるという点までたどり着くまではそんなに時間はかからないかもしれません。

2011年3月 7日 (月)

出会いについて

生きている中で,人は多くの人と出会い,その出会いの中で,喜び,悲しみ,怒りなど様々な思いと出会います。

誕生した時に親と子の出会いがあり,子は親の支えの中で自分の世界を少しずつ広げ,新たな出会いに遭遇し,そして自分の世界を確立していきながら,親から独立していき,そして独立した子は,また新しい出会いの中で,愛を見つけ,そして親になります。

生きている中で無数にある出会い,しかし,一方で心に残る出会いというものは意外に少ないのかもしれません。心に残ると言ってもいい残り方だけではありません。あの野郎と思うような悪い残り方をするものもあるでしょう。

心に良い印象の残る出会いを多くできたこと。いい人間関係に恵まれること。これも幸せを測る一つの物差しなのかもしれません

2011年3月 6日 (日)

有責配偶者,もう一方の配偶者双方からの離婚請求?!

結婚後1年。夫婦は長男に恵まれました。しかし,そのころから妻と夫の母親の仲が悪くなってきました。

さらに2年後には長女にも恵まれます。それを機に,なぜか夫の両親,妹と同居するようになっていきます。以前から仲の悪かった妻と夫の母親の関係は同居によってさらに悪化することになっていきます。

夫は母親側につき,妻をかばうどころか,何を思ってか,妻が別居したくなるように仕向けるような行動をとっていました。そのため,当然といえば当然に夫と妻は家庭内別居状態となってしまいます。

半年後,夫婦間で離婚についての話し合いがもたれました。しかし,結論は出ず,結局妻は実家に帰ることになります。

別居中,夫は妻への生活費の支払いを拒み,その状態が8年間も続きました。

その後,夫婦双方から離婚請求がなされたのです。

この場合,有責配偶者(悪意の遺棄,協力扶助義務違反)である夫からの離婚請求は一般的に認められないのですが,妻からも離婚請求がなされており,婚姻を継続しがたい重大な事由があるとして,双方からの離婚請求が認められることになりました。

2011年3月 4日 (金)

京大カンニング事件で思うこと

カンニング問題で,一人の若者が逮捕されてしまいました。

カンニングは許されるものではないでしょう。ありきたりですが,他の一生懸命勉強してきた人の枠が,下手をするとカンニングした人に奪われてしまう。

ただ,今回のカンニング騒ぎは少し異常さを感じました。手口が驚くようなことだったのか,またまた,話題性があったのか,すごい騒がれようです。

多くの報道では「カンニング」したことで他の受験生から「逮捕されて当然」などというセリフも見られます。

しかし,カンニングで逮捕されたとは,私は聞いたことがありません。

さらに今回の逮捕容疑は偽計業務妨害容疑とのこと。これは虚偽の風説を流布し、または偽計を用いて人の業務を妨害する行為とされており,カンニングをしたことよりも,世間を騒がせ,京大の業務を妨害したために逮捕されたと考えられます。

世間を騒がした?いや,「世間が騒いだ」のではないでしょうか?カンニングの問題よりも,カンニングを見過ごした京大への問題提起的な意味もあったのかもしれません。

一流大学試験中のハイテクカンニングも話題性があったのかもしれません。そう,世間を騒がしたのではなく,話題性から世間が騒いだのではないかと思ったのです。

世間が騒いだため,大学も動かざるをえない。動かされたわけです。それで,他の業務が滞った。

なんとなく,ぼんやりとですが,この一連の騒ぎは様々な要因が絡み合ってるなぁと感じます。しかし,結果的にというか,はっきりしているのは「カンニングをした悪い若者がいる」という点です。なので,この騒ぎの大本として一極集中的に非難される。

カンニングをしたら,受験した学校の不合格はもちろん,出入り禁止になっても仕方がないと思われます。しかし,逮捕というとなんだか,やりすぎのような気もしました。

19歳の若者なので,成人になれば再出発となるかもしれません。しかし,若者,若者の親,親戚などに与えたダメージは金銭的にはともかく,大学が受けた不利益よりも大きくなるかもしれませんね。

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