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2011年5月の投稿

2011年5月31日 (火)

君が代斉唱起立命令「合憲」判決について思うこと

今回の判決についてよく言われていることは「思想・良心の自由」の制約について出と思います。思想の自由は内なる部分では完全なる自由であってこれを誰かが制約することは違憲である前に,非常に困難であると思われます。

そして,「思想・良心の自由」はその内面にとどめ置く場合については何ら制約なく認められる自由と考えられます。

しかし,それが外部へ表出される場合,それは場合によって何らなの制約を受けることになります。

誰かを好きになり,その気持ちが心全体に広がっていても,それはその人の自由の範囲でしょう。しかし,その思いが高じてストーカーまがいの態度として表出されると,これは相手への影響も考えて,制約せざるを得ない場面が出てきます。

それでは今回の起立命令がそういった制約せざるを得ない場面であるかどうかが問われると思われます。最近はこういった内容の条例が大阪府で提案されているとも聞きます。

私自身は,公務員は様々な思想に対して中立的な立場を表出すべきではないかと考えています。

かといって過度にその立場をかたくなに守らせようとするのはどうかとも思われます。

そういった両面から考えて,今回は学校という教育現場で行われる表出活動はこの場合制約が必要かということです。

私が親として,自分の子どもの担任の先生だけ,かたくなにそのような態度をとっていたとしたら,「この場面でここまでの態度をとるということはかなり,思想的に偏っておられる。担任の先生として心配だなぁ」と素直に思うと思われます。

一方で,そのような態度を全然見せないまま,例えば,違う保護者から,「あの人はご自身の経験や思いなんかで,君が代には反対されていて,いろいろと仲間内で勉強されて,国等にも意見を出しているらしいよ。でも,この場において自分を出すのは間違いだから,自分の中で区別されて行動されているらしいよ」と聞くと,頑張っておられるんだなぁと素直に思うと思われます。

教育者である前に思想をもった個人であることは理解できます。しかし,教育の場においては教育者として子どもに与える影響を考えて行動してほしいと思いました。

2011年5月30日 (月)

障がいのある人にとって暮らすことの大変さ

今まで,私は障がいのある人やその家族の方々と出会いながら,その障がいそのものと向き合っていくことの大変さをつくづく感じさせられてきました。

障がいの状態が重度になると「生きる」といった命そのものについて常につきつけられながら生活していかねばならないこともあります。

「子どもが生まれた時,野原を駆け回り,ブランコを元気に漕いで,またある時は遊園地でメリーゴーランドに乗る。そんな夢を描いていましたが,うちの子は難しいようです」

と言われていた母親の言葉がありました。その子は呼吸器管理されていて,外出自体が難しい様子でした。

「この子にも野原の空気を吸わせてやりたい,遊園地のにぎやかな雰囲気を味あわせたい」

そう思う一方で,感染したらどうしよう。急激な環境に変化に体がついていかなければ,今後の体調管理が非常に困難になる可能性もある。

願いと現実のはざまで,常に悩みと向き合わなければいけないのです。

しかし,それだけではありません。

先日,こんなことがありました。

重症の障がいのある方の車椅子作成をしようとした時のことです。車椅子の助成を受けるためには更生相談所の診断が必要です。

この診断は本人が更生相談所に行くのが困難な場合,訪問しての診断も可能となっています。

この方は車椅子乗車は可能ですが,座る姿勢を確保するための筋力が弱いため20分程度継続して車椅子に乗ることが難しい状況です。そこで,安定して座れる車椅子を作ろうとしているわけです。

そこで,現在入所している施設に,その旨を伝えたところ

「うちでは呼吸器管理をしている人以外は訪問を利用しないことになっていますので,相談所に行って下さい」

とのことです。来所か訪問かを決めるのは医師の意見書によって更生相談所が決めることになっています。施設がそんなことに口をはさむのは理解できませんでした。

「医師が判断することでしょう?」

そう言うと

「このくらいの人の状態で意見書を書くと,うちに医師が更生相談所から悪く思われる可能性がある」

とのことでした。更生相談所までは30分はかかります。そして,そこでも40分以上は診断等に時間を要するとのことです。

その人は施設の行事(2時間程度の)にも20分程度しか参加できません。それ以上の時間,車椅子に乗っての参加が難しいからです。しかし,早くとも2時間近くかかるかもしれない,その診断には行きなさいとのこと。それは,施設が更生相談所から指摘されるかもしれないのでそれが嫌だから。

どこを向いているのでしょう?

まだまだ,バリアの多い社会の中で,生きていくのは大変です。それなのに,一番近くにいるはずの施設の方がさらに無理を押しつけてくる。理解のない環境の中では暮らすことだけでも大変です。



2011年5月25日 (水)

最近の報道から考えた信用と責任

昨日,地元岡山県で高校生が母親の虐待の疑いによって死亡したとの報道がありました。その報道を見て,先日高校を卒業したばかりの人がこう言いました。

「この学校信用なくしたね」

児童相談所にも相談を持ちかけていた。それも母親が,です。学校では母親から暴力を受けていた事実をつかんでいたとの報道もありました。

相談をされるのは信用されていたからでしょう。しかし,その信用を裏切る結果になってしまった。その結果として人が亡くなってしまいました。

この責任はだれが取るのでしょう?虐待死が事実であった場合に,それを見過ごしてしまった学校と児童相談所はどのような責任を取るのか?この結果に対しての責任をどう考えるのか?

少し前に「ユッケ中毒事件」がありました。この会社は信用を失い,当然に賠償も行い,焼肉屋の存続など考えている場合ではない状態であると思います。社長も会社も責任を取ってしかるべきだからです。この焼肉屋は信用をなくし,存続はできなくなるかもしれません。

しかし,これが結果責任であると思います。雪印も信用を失い,不二家も信用を失いました。そして当然に社会的責任をとることになりました。吉兆庵もしかり。

しかし,児童相談所と学校は存続することでしょう。その存続を脅かすほどの責任を追及されないからでしょうか?

そして,原発の事故。政府も東電も完全に信用を失っている状態であると思います。しかし,それぞれ存続しています。

信用を失っても存続できるといった状況は責任感を失わせると思いました。そして,そのような「軽い」責任感では,また同じことを繰り返すことになるわけです。

信用を失っても,「言い逃れ」「言い訳」によって自己弁護をして,自己満足な責任を果たしたと言うだけで,済まそうとするのはいただけません。

2011年5月24日 (火)

夫婦の問題編~有責配偶者ともう一方の配偶者からの離婚請求!?~

このところ時事の話題について触れることが続いていたので,本業に戻って,夫婦の問題について,判例をもとに書いてみたいと思います。

今回は,一般的に認められにくい,有責配偶者からの離婚請求であっても,もう一方の配偶者からの離婚請求も重なったために認められたという事例です。

結婚後1年。夫婦は長男に恵まれました。しかし,そのころから妻と夫の母親の仲が悪くなってきました。いわゆる嫁姑問題ですね。

ただ,夫婦間の仲はさほど悪くなかったようで,さらに2年後には長女にも恵まれることになります。そしてなぜか,それを機に,夫の両親,妹と同居するようになります。

予想通り,以前から仲の悪かった妻と夫の母親の関係は同居によってさらに悪化することになりました。それなら同居しなければいいのですが,そのあたりに夫のどういった働きかけがあったのか…。

実は,夫は母親側につき,妻をかばうどころか,妻が別居したくなるように仕向けるような行動をとっていたのです。そうなると,夫の両親,夫の妹という状況の中では,嫁はいわゆるアウェー状態であるわけで,孤立状況となってしまいます。そのため,夫と妻は家庭内別居状態となってしまいました。。

半年後,夫婦間で離婚についての話し合いがもたれました。しかし,結論は出ず,結局妻は実家に帰ることになります。単に二人が離れるだけならここで成立したかもしれません。しかし,離婚には気持ちの問題と,一方でおかねの問題が絡んできます。ここで同意できなければ,顔を見たくなくても離婚はできないという構図も出来上がってきます。

別居中,夫は妻への生活費の支払いを拒み,その状態が8年間続きます。婚姻費用の分担義務を考えれば,妻は夫に対して,生活費の請求をできたものと思われますが,勝手に出て行った妻に対して,支払う義務はないというのが夫の考えでしょうか?

その後,とうとう夫婦双方から離婚請求がなされました。

この場合,有責配偶者(悪意の遺棄,協力扶助義務違反)である夫からの離婚請求は一般的に認められないのですが,妻からも離婚請求がなされており,婚姻を継続しがたい重大な事由があるとして,双方からの離婚請求が認められました。

気になるお金のことですが,これは今から40年ほど前の判例ですので,額が大きいのか少ないのかよくわかりませんが,夫から妻に対して慰謝料が30万円支払われました。

2011年5月23日 (月)

建設的で進歩的な国会審議を希望しています。

大物芸能人が亡くなり,有名元アイドルグループの方が婚約を発表したり,日中韓の首脳が会談したりと様々なニュースが流れる中で,でも,震災にかかわるニュースは依然として多くの時間を占めています。その中でも最近(以前から)も原発が大いに注目されている状況は変わりません。

今日より,復興支援に関する国会(委員会)の審議が始まるそうです。その中で建設的で進歩的な国会審議を希望します。

そんな中,「海水注入中断」に関して,誰が入れるなと言った,言っていないなどでまたもや対策への取り組みにおいて足並みがそろっていなかったことが露見しました。。

この件に関して,野党は今国会で追及するでしょう。原発対策への取り組みでの不手際ということで追及しないわけにはいかないと思われますが,その追及で対策への取り組みが足踏み状態にならないようにしていただきたいです。

風評被害を抑えようとする動きの中で,風評被害が出ることで地元からの補償を求める声が上がるのは確実であり,その補償額を抑えるために国を挙げて放射能を含んだ作物を国民に食べさせようとしているとの混乱に満ちた意見も出ているようです。

与党から離党者も出ようとしている様子。

今はもめている場合じゃないと思います。しかし,対策の不備を指摘せずしては前に進めない。そのあたりは当然であると思います。

ただ,この混乱はそれらだけではなく,誰か,どこかが,かたくなに保身ばかり考えながら動いている,発言しているのも原因の一つではないかと思われて仕方がないのです。

2011年5月20日 (金)

誰の保身が優先されているのか?一連の震災関連報道で思うこと

このところ,震災の報道は毎日行われています。被災地の生活や放射能漏れなど,本当に今回の震災の災害の大きさや,その社会に及ぼした影響の大きさの感じさせられます。

そんな報道を見ていて,ふと,微妙なバランスがとられている?と感じました。

例えば東電。多くの被害を生みだしました。賠償責任も出てくることだと思われます。多くが東電を非難する傾向にあると思われます。

その一方で東電の赤字が発表されました。「東電自身も被害を受けている。さらにいろいろしているから赤字になってしまう」ようなメッセージであるとらえる方法もあるなぁと。

原発に関しても,放射能の影響等を人知,人力で抑え込むことができないことが明白になってきている一方で,原子力発電を停止したら,困るのは住民たちであるといった情報も見まれます。

東電の赤字と言っても,自身によって,放射能によってすべてを失った人,それらの人たちの受けた経済的な影響を考えると,そちらの方が大きいのではないかと思われます。

今回の地震,放射性物質等の震災に絡んだ住民が被った被害総額はどれくらいになるのでしょうか?農家の人の影響,漁業の人の影響など部分部分ではある程度の情報が流れている物と思われますが,例えば,現地の工場が破壊されて,他に工場を建てる,また,破壊された工場の労働者を迎え入れるための費用,車などの家財等を失った人の被害,タンス預金が流されたというのもあります。

誰が何をしたからこういう結果になったのか?

本当に自然だけが加害者なのか?

被害の総額などをきちんと出して,その状況を生み出した責任はどこにあるのかをしっかりと表に出してほしいと思いました。

2011年5月19日 (木)

国歌斉唱で起立しない人への橋下知事の処分について思うこと

国歌斉唱で起立しない今日職員は処分,公表等をされるとの条例案が出されたらしいです。

国歌斉唱で起立すべきか,そうではないか,それに対する処分はどうかということへの直接的な意見になるかどうかはわかりませんが,私なりに以前から思っていたことがあるので,それを書いてみたいと思います。

国歌斉唱で起立しないというのは,国歌として認めたくない気持ちの表れと思われます。日の丸に対しても様々な考えがあるのと同じではないかと思います。

その気持ちの面について,国歌・国旗をどう思おうが,それが国民意識レベルとしてどうかという部分は別問題として考えると,どう思おうが自由なのは憲法によって保障されています。

国歌・国旗を認めたくないと内心で思うのは自由なのです。

しかし,それを態度で表出する場合は,制限がかかってくると思います。基本的に人は自由な存在であっても,それは公共の福祉に影響を及ぼさないレベルではないといけないわけです。

また,国歌・国旗を認めたくないという態度が,他の人に不快な思いを抱かせる場合,自由と自由の衝突が起こります。その場合,現在ではこの民主主義のシステムの中で国歌・国旗として認められていう以上,不快な思いを抱く人の立場の方が尊重されるのかもしれません。

そして,その態度の表出を教職員が何らかの式典で行う場合はどうでしょう?教職員は自身がどういう思想を持つかは自由であることは当然です。

しかし,子どもたちに多くの知識を与え,その思想形成にも大きな影響を与える立場にある教職員がその思想表明を自由に行ってもいいかという点では疑問があります。

教職員という立場である以上,そのスタンスは中立を,それこそ異常なくらい中立なスタンスを意識していく必要があると思います。思想的に偏り,それをかたくなに主張し表明する人はやはり教職員としてはふさわしくない人ではないかと思われます。

先日,新しい海外映画の発表があり,その出演者から日本への励ましの言葉が送られてきました。また,海外のスポーツ選手からも励ましの言葉が多く送られてきています。その励ましの言葉が何に書かれていたか?それは日の丸の旗です。

海外の思いに従うというわけでは決してありませんが,現在ではそういった多くの認識が日本の象徴として日の丸や国歌を認めている状況にあります。

国際的な競技でも国歌斉唱・国旗掲揚は必ず行われ,国の象徴として当然のように扱われています。

子どもたちはそういう当たり前とも言える現況の中で生活しています。そんな中,何かしらの式典で自分のかかわっている先生がかたくなな態度を取っている場面をどういう思いで見るのでしょうか?

主張か?わがままか?その態度が子どもに何を与えるのか?

考えてほしいなぁ。

2011年5月18日 (水)

原子力から原始力へ

原子力発電所のメルトダウンがわかったとのこと。ただ,炉心溶融とメルトダウンは正確に言えば違う意味だという意見もあります。

私たち原子力に関して無知なものにとって,その言葉の意味の違いよりも,現状が私たちの生活にどのような影響を及ぼすのか?そこが知りたいと思っています。

しかし,大体が「影響はない」と並べるばかり。以前は「メルトダウンは起こっていないので大丈夫」と言っていたのに,今度は「メルトダウンは起こっているけど大丈夫」だそうです。

水漏れにより,水で冷やす方法を変えたとの報道がありました。汚染水を浄化してその水でまた冷やすとのことでした。

原発の状況の説明はあるものの,それが日常にどのような影響を及ぼすのか?その説明はありませんでした。

汚染水を浄化できるのなら,なぜ,今まで汚染した水を垂れ流したのか?

原発反対派の人,推進派の人の一致のない意見。どちらが正しいのか,私にはわかりません。

そんな中ふと思いました。ひょっとすると,これら学者の方々も本当のことはわかっていないのかも…。

原発が建設されて40年はたっているとのことですが,今でもよくわかっていないのに,その当時はもっとわかっていなかったのでは?

わかっていることは原爆を投下された日本だからこそわかる原子力の恐怖。一方で安全に扱うことはわからないまま進められた。

人間にも本能はあると思います。以前は「火」を扱えるようになるため非常に多くの年月を要したと思います。

それは,「危ない」という本能が慎重さを生みだして,人を安全に導いていたと思われます。

しかし,複雑になった世の中で,経済的な影響もあるのか,そのほか多くの影響や圧力が正確な判断を導かないようになったのでしょうか?人間としての基本的な本能である「危ない」を感じられなくなったのか,わからなくなったのか?

しかし,現状の報道などをみると,当り前に,原子力は「危ない」と思えるのですが,「と言っても」という言葉が付け加えられることも多いようです。

「危ない」と感じたら「手をつけない」のが人間としての本能です。その当たり前のことが分からなくなっているのではないでしょうか?

原子力から原始力へ。

2011年5月16日 (月)

住み慣れた町を離れるということ

原発事故の影響で退避を促されている人たちがおられます。子どものためにと積極的に離れようとされているからもおられるようです。しかし,多くの方は住み慣れた町から離れるさみしさや,不安に襲われている状況ではないかと思われます。

そして,もっと感じられているのは「どうして自分たちが?」「どうしてこんな目にあうのか?」といった何とも言えない疑問ではないでしょうか?

地震,津波といった天災についての大きな被害について,それだけでも途方に暮れる状況であるにもかかわらず,「安心・安全」と謳われていた原発の影響での退避です。

「なんで,ここまでの目に合わなければならないのか?」そういう気持ちは湧いてくるのではないかと思われます。

ところで,私は専門後見人として仕事をさせていただいております。ことの背景は違いますが,そこでも同じセリフを聞いたことがあります。

ある障がい者施設で生活している知的障がいのある方の話です。

もう当然成人は迎えられています。

その人が言いました。

「ここには門限がある。それも5時半だ。外出も自由にできない。携帯を持つのにも職員の許可が必要だ。中学の時の同級生はみんなそんな生活は信じられないという。どうして自分だけこんな状況で我慢しなければならないのか?」

その理由は何なのでしょう。なぜ,そのような生活を強いられなければならないのでしょう。

障がいがあるから?それはだれのせい?

何をするにしても,誰かの許しを得なければ活動できない。

また,別のところでは後見人としてお願いされるときに「施設入所を速やかに行ってください」と家族でもなく,本人でもない人に言われました。

しかし,家族も本人も「住み慣れた町」から離れること,離されることをとても嫌がっておられました。

なぜ?住み慣れた町から離されることを第三者から促されなければならないのか?

当然,私は本人の気持ちを重要視して在宅での生活の保障に力を入れていきます。

「普通の生活」を奪うことを簡単に考えないでほしいと思いました。

2011年5月13日 (金)

上原さんの自殺報道について思う孤独やさみしさについて

昨日,芸能人の上原さんが亡くなったとの報道がありました。現時点では自殺とのことで,冥福をお祈りします。

最近は海外も含めて,活躍中の芸能人などが自殺することをよく目にすることがあります。活躍中なので,生活苦での自殺とは違う要素を持っているのでしょう。

なので,生活苦にあえいでいる人からすれば,生活に困らないだけのお金があるのに理解できないということになるのかもしれません。

ただ,共通項はないわけではないと思われます。経済的貧困での生活苦の場合,一番の不安は先が見通せないことではないかと思われます。「この先どうすれば?」というものでしょう。

一方で,経済的に裕福であれば先が見通せない不安はないとは言い切れません。今回の場合でいえば,ブログに「孤独」や「さみしさ」を感じさせる発言が多くみられたとのことでした。結婚願望もその孤独感から逃れたい裏返しだったのかもしれません。

人は多くの不安に襲われ,ストレスを抱えながらもどうにか生活しております。そのストレスに勝つために,負けないために,人は人を頼ることもあります。

使い古された言葉ですが,人は一人では決して生きてはいけません。

そう考えた時に,自分の心の中の不安が「孤独」であったとき,その不安は,心の中で大きくなりこそすれ,小さくなれる要素はありません。「孤独」な不安なために,人に頼ることができない。つまり,「孤独」であるため,もしまた裏切られたらといった「孤独」の相乗効果となってしまうような出来事を起こさないためには,人は頼らないほうがいいのです。

なので,また一人で抱え込む。「本当の意味で自分を助けてくれる人」の存在を必死で望みながら,しかし,一方でその存在にめぐり合うためには人との関係づくりをしていかなければならないわけで,それが怖くてできない。

「孤独」の不安が根底になると「小さな裏切り」であっても「やっぱりか」と人間不信は強まってしまうわけです。

今朝,芸能人の内田さん逮捕のニュースが流れました。女性に対して交際を強要し,脅迫的な行動を取ったような報道がされていたと思います。

「孤独」の中,ある人の存在が「小さな光」であっても,自分の暗黒の孤独を照らす一筋の光として思えたとき,その人が唯一の存在に見え,何としてもその関係を継続しようとしてしまう。

一見わがままに見えるその行為も,実は「孤独」の海で溺れそうになっている者がわらをもつかむ思いで,後先考えず,行ってしまうこともあります。

上原さん,内田さんの報道やその事実は一切わかりませんが,芸能界って孤独でさみしいところなのかなぁと感じ,書いてみました。

また,自殺に関する報道については,それが与える社会的影響を考えながら,慎重に取り扱う必要があると思われます。

2011年5月10日 (火)

最近の報道を見て思う中立性について

最近の報道を見て,なぜこの問題にやたらつっこむのか?また逆になんでこの問題をもっと取り上げないのか?また,放送局等によって問題の取り上げ方の温度差を感じることがあります。

報道は自由で,真実の範囲であれば,どうとりあげてもいいのかもしれません。よくわかりませんが…。ただ,報道の自由が国民の知る権利に基づいているのであれば,国民の知るべき情報を的確に流す必要があると思われます。

とある番組では学者系コメンテーターに「○○の方向でコメントをお願いします」といったコメンテーターを誘導するような事前の打ち合わせがあったとか…。

今,ユッケ食中毒事件での肉の取り扱いについて焼肉業界に波紋が広がっているようです。焼肉業界といえば,芸能界の方々が多く経営されていると聞きます。

原発ではそれらの建設・安全等の団体に多くの放送局の重鎮の名前があると聞きました。

温度差はこういうところから,さりげなく起こってくるものなんだろうか?ふと,思ったりもします。

2011年5月 9日 (月)

浜岡原発停止の波紋からでてくる思いについて

浜岡原発の停止要請が出て,様々な意見が出ています。特に興味深いのは県が賛成して,市が反対している様子が見られることです。自治体レベルでいえば,原発事故の直接の大きな被害が出ると予想される市の方が賛成するのかと思いきや,逆の構図となっています。

さらに,その賛成している市の中でも,賛否に分かれている様子が見られるようです。現在の時点で,福島原発被害の風評的な影響で経営に支障が生じている所は停止に賛成で,逆に停止することで経営に支障が出る原発に関連した事業は停止に反対とのこと。

このような状況をみると,以前聞いた原発がらみの情報がありまして,実は今まで信じていなかったのですが,本当だったのかもしれないと思うようになりました。

その情報とは原発の建設地の首長が,原発はおいしいみたいなことを講演で話していたとのこと。建設で誘致に成功した議員等にはお金が配られ,その議員から協力者にお金が配られていたとのこと。さらに,微量の放射性物質が流出した時に,現地の行業関係者に「あわてなくても補償金を実害の何倍かに吹っかけて請求すればそれで済むから」みたいなことを言っていたとのこと。

原発特需というのでしょうか?この真偽のほどはわかりませんが,様々な情報から,そんなこともあったのかもしれないと推測してしまいます。

違うのかもしれませんが,米軍基地と構造が似ているような気もしました。

また,停止による電力供給の不足の不安と言われています。一方で原発停止賛成の人たちは不足は起こらないと言っています。そして,供給不足となる参考資料は中部電力のだしたものもあるようです。

停止反対の人には,政権浮揚を狙っての思いつきであるという方もおられます。地元以外の人のいろいろな意見なのですが,いろいろ賛否をもっともらしく言われています。

しかし,この停止に反対する人はやはり原発容認・賛成の人のようですし,停止に賛成する人は原発反対の人のようです。現況・現状よりも自己の主張に基づいたご意見なのでしょう。

地元では利権が渦巻く中での賛否。それいがいではそれぞれの主張がぶつかり合う中での賛否。

これを私たちはどうとらえていけばよいのでしょうか?

2011年5月 8日 (日)

浜岡原発の停止について思うこと

浜岡原発の停止要請が出たということです。現状を考え,深い内情等を知らなければ妥当な判断と思います。

ただ,それだけではないようです。

電力不足等の生む産業等への影響を考えたところ,停止は妥当ではないとの意見もあるわけです。

一方で活断層のこと,事故後の影響等を考えた時に停止は妥当との意見もあるわけです。

現政権に吹く逆風を少しでも減らすための政局がらみの要請であるとの意見もあるわけです。

何がどうなのか?よくわかりません。

ただ,原子力がらみというと,原爆のことが頭をよぎるのです。

第2次世界大戦は終盤どこで幕を下ろすかとの議論もなされていたと聞いたことがあります。その中で,強硬派が様々な利権等を背景に戦争を続けることにしたわけです。

その結果,原爆が落とされる結果となりました。その因果関係ははっきりとしませんが,結果としてこうなったのが史実です。

今回,浜岡原発の停止で中部電が株主の理解等を言っています。電力不足による悪影響も言っています。

しかし,一方で明日活断層による大地震が起こらないとは言えないわけです。その地震の影響は今回の地震で痛いほど理解させられています。

それらのことを精査して,どういう判断がベターなのか?中部電は電気の供給という,公共的な仕事を担っている以上,自社の保身のみを考えるわけにはいかないと思いますし,だから,簡単に供給を辞めるとも言えない苦しい判断をしなければならないわけです。

さらに,地震が起きて事故が発生した時には継続との判断をしてしまった中部電の判断は非難の矢を浴びることになるでしょう。

様々な要因が考えられると思いますが,「実害」を起こさないためには,今どんな判断が必要なのかしっかりと考えていただきたいと思います。

この判断は原発建設に踏み込んだときに背負った十字架ともいえると思います。

2011年5月 6日 (金)

ユッケ食中毒事件について思うこと

被災地の様子,原発がらみの報道が連日のように流れる中,連休中にまた悲惨な事件が引き起こされました。

これは完全なる人災です。ただ,これらの報道の中にも,加害当事者の共通項のようなものが見え隠れしました。

初めの記者会見で焼肉チェーン店の社長は,「自分だけが悪いのではない」といった,卸業者,他の店舗等も巻き込むような発言をしていました。

「ユッケようではない肉をユッケに使用したのは卸業者の提案」

「他の店舗でもしていることである」

これらの発言は真実であれば,それはそれで問題ではあります。しかし,それらの発言はそこで行うべきではなく,取り調べの時にでも行ってもらえばよいのではないでしょうか?

会見では,自らの非を認め,ひたすら謝罪するしか方法はないと思われます。賠償のこともきちんと誠意をもって触れるべきであったと思われます。

原発の会見でもありましたが,最近はよくこのような会見・行動を目にすることがあります。

被害者がおり,明らかに自分がその加害部分について責任の一端があるにもかかわらず,「自分は悪くない・やむをえなく行ってしまった」的な発言を繰り返す。

もし,後々の賠償を問う裁判等の対応のためにこのような発言をさせているものがいるとしたら,法は悪に加担していると思われてしまうでしょう。

テクニカルな言い回しで,自分の非の部分を何とか軽減しようとする。そこには自分を守ろうとすることに必死で,自分が与えた被害に対する謝罪等の意識は見られません。

また,そのチェーン店の社長は自分宛ての「人殺し」と書かれたメールについて,まるで自分も被害者であるようなそぶりの意見を主張されていました。自分のことばかりで,他者への思い,自分の与えた被害の大きさについて,どう思われているのか疑問しか浮かびませんでした。

つい先日,土下座をされている様子が流れていました。「真意なの?」これまでの言動や,態度などから,ふと思ってしまいます。

東電の社長も同じような様子で報道されていました。その時も「真意なの?」という思いがよぎってしまいました。

これがパフォーマンスではなく,真意であるかどうかは,これからの彼らが行う一つ一つの行いが語ってくれることだと思われます。

自身に重ね合わせても,人間は弱いもので,つい過ちを起こす可能性を常に秘めていると思います。このような方々を反面教師として,行動を修正していかねばなりません。

2011年5月 3日 (火)

ビンラディン容疑者殺害について思うこと

ビンラディン容疑者が殺害されたという報道がなされています。テロの脅威や今後の報復等,様々な意見が交わされていますが,私はそれらとは違う見方(たぶん)で思いを書いていきたいと思います。

まず,オバマ大統領の「正義」が行われたことについて,確かにテロは国際的な犯罪であるため,一般的には「悪」と言われています。

しかし,テロ行為をする側にとっては,これは侵略に対する反撃に過ぎないと言い,侵略している欧米こそ「悪」であると言われています。

こう考えると「正義」と「悪」はこの部分ではよくいわれるように相対的なものだといえるでしょう。どちらもその正当性を主張しながら戦争行為をしているわけです。

ここではその正当性が正義と言えるのかもしれません。

それでは「正義」と「悪」は常に相対的なのでしょうか?絶対的な「正義」や「悪」はないのかという命題です。

子どもの頃は学校などで「人を傷つけてはいけません」と言われました。その言葉の前に「何があろうと」という意味を含んでいたと思われる節もあります。

そこに道徳的,倫理的な根幹としての正義があるのかも知れません。「人を傷つける」をの延長線上に「人を殺す」というものがあれば,それは絶対的な「悪」といえます。一応そのように仮定しておきましょう。

さて,人を殺すと言えば「戦争」です。上の理屈でいえば,戦争自体は悪であると言えます。しかし,「悪」であるとわかっていながら正当性を主張して行われるものが戦争です。オバマ大統領も今回の「殺害」を「正義」の行為としました。

とすると,家庭的に決めた絶対的な「正義」や「悪」は相対的なそれに劣後することになります。相対的に優先される絶対的なことは考えられないので,結局,「人を傷つける」行為は絶対的でなく,一般的「悪」となってしまうでしょう。

人を殺すのは一般的に悪いことであるが,今回のケースでは正しい。といった感じです。

そうなると,大変重要なのは「今回のケースでは」という相対的なものをはかる基準です。

今日は憲法記念日。弁護士会が「死刑について考える」フォーラム?のようなものをやっているようですが,まさしく「死刑」とは「人を殺すこと」です。この「殺人」を絶対的悪ととらえれば,死刑は行うべきものではないことになります。しかし,それを一般的ととらえれば,死刑も相対的はかりにのせた上で,基準を超えれば行ってもいいことになります。

とすると,「死刑廃止」は「殺人」を「絶対的悪」ととらえる方向性でもあり,その延長線上には「戦争廃止」も視野に入れなければなりません。

「殺人」を相対的悪としてとらえることによって,逆に犯罪者にとっては,自分なりの相対的はかりで判断し,殺人を行わせる動機づけにもつながりかねないことも考えなければなりません。

年に1回の憲法記念日にこの難しい問題を考える。そのこと,その時間が必要なのかもしれません。

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