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カテゴリー「ニュース」の記事

2011年6月 1日 (水)

虐待の防止について

虐待による事件が後を絶たない状況が続いています。親族による高齢者虐待,親による子どもの虐待,施設等での虐待,ほとんど毎日のようにニュースが流れています。

先日,岡山市でも虐待の疑いにより16歳の高校生が亡くなりました。

気になるのは,例えば,老老介護等での介護疲れの中で引き起こされた殺人などで,一方的に加害者が非難されるのではなく,同情される面もあるということです。

もちろん,大変な状況の中での介護は想像を絶するものであると思われます。しかし,人を殺める行為はほんの少しでも「しょうがないか…」と思ってはならないと思います。

加害者が同情されることで,自分も社会的被害者であったとの意識が芽生えるかもしれません。そしてその芽生えは,起こしてしまった加害者の人でなく,現時点で介護等に追われている人の心に植えつけられることもあるでしょう。

今回の岡山市の事件では,本人の自傷行為をやめさせるために手足を縛ったという供述があったと新聞で報道されていました。しつけのために暴力を振るったという点もあったと思います。

誰でも,そのような行為が容認されるとは思っていないでしょう。しかし,自分の能力値を越えた現実が目の前にある時,「力ずく」な行為に走ってしまうもの現実でしょう。これを「しょうがない…」「いけないことだけど,気持ちはわからないでもない」と同情的に容認してしまうと,虐待は亡くならないと思われます。

個人等の対応でのその能力値を超えた場合には,やはり,社会がそれを支えていくほかはないのではないでしょうか?

役所は「事件が起こらないと動いてくれない」と言われることもあったようですが,現在は迅速に動く体制があるのではないのですか?事前相談,予防的措置を専門家がきちんと対応し,アドバイスできるような体制を一刻も早く作ってほしいと思います。

必要なのは加害者に対する罰ではく,救済的措置だと思われます。

2011年5月31日 (火)

君が代斉唱起立命令「合憲」判決について思うこと

今回の判決についてよく言われていることは「思想・良心の自由」の制約について出と思います。思想の自由は内なる部分では完全なる自由であってこれを誰かが制約することは違憲である前に,非常に困難であると思われます。

そして,「思想・良心の自由」はその内面にとどめ置く場合については何ら制約なく認められる自由と考えられます。

しかし,それが外部へ表出される場合,それは場合によって何らなの制約を受けることになります。

誰かを好きになり,その気持ちが心全体に広がっていても,それはその人の自由の範囲でしょう。しかし,その思いが高じてストーカーまがいの態度として表出されると,これは相手への影響も考えて,制約せざるを得ない場面が出てきます。

それでは今回の起立命令がそういった制約せざるを得ない場面であるかどうかが問われると思われます。最近はこういった内容の条例が大阪府で提案されているとも聞きます。

私自身は,公務員は様々な思想に対して中立的な立場を表出すべきではないかと考えています。

かといって過度にその立場をかたくなに守らせようとするのはどうかとも思われます。

そういった両面から考えて,今回は学校という教育現場で行われる表出活動はこの場合制約が必要かということです。

私が親として,自分の子どもの担任の先生だけ,かたくなにそのような態度をとっていたとしたら,「この場面でここまでの態度をとるということはかなり,思想的に偏っておられる。担任の先生として心配だなぁ」と素直に思うと思われます。

一方で,そのような態度を全然見せないまま,例えば,違う保護者から,「あの人はご自身の経験や思いなんかで,君が代には反対されていて,いろいろと仲間内で勉強されて,国等にも意見を出しているらしいよ。でも,この場において自分を出すのは間違いだから,自分の中で区別されて行動されているらしいよ」と聞くと,頑張っておられるんだなぁと素直に思うと思われます。

教育者である前に思想をもった個人であることは理解できます。しかし,教育の場においては教育者として子どもに与える影響を考えて行動してほしいと思いました。

2011年5月25日 (水)

最近の報道から考えた信用と責任

昨日,地元岡山県で高校生が母親の虐待の疑いによって死亡したとの報道がありました。その報道を見て,先日高校を卒業したばかりの人がこう言いました。

「この学校信用なくしたね」

児童相談所にも相談を持ちかけていた。それも母親が,です。学校では母親から暴力を受けていた事実をつかんでいたとの報道もありました。

相談をされるのは信用されていたからでしょう。しかし,その信用を裏切る結果になってしまった。その結果として人が亡くなってしまいました。

この責任はだれが取るのでしょう?虐待死が事実であった場合に,それを見過ごしてしまった学校と児童相談所はどのような責任を取るのか?この結果に対しての責任をどう考えるのか?

少し前に「ユッケ中毒事件」がありました。この会社は信用を失い,当然に賠償も行い,焼肉屋の存続など考えている場合ではない状態であると思います。社長も会社も責任を取ってしかるべきだからです。この焼肉屋は信用をなくし,存続はできなくなるかもしれません。

しかし,これが結果責任であると思います。雪印も信用を失い,不二家も信用を失いました。そして当然に社会的責任をとることになりました。吉兆庵もしかり。

しかし,児童相談所と学校は存続することでしょう。その存続を脅かすほどの責任を追及されないからでしょうか?

そして,原発の事故。政府も東電も完全に信用を失っている状態であると思います。しかし,それぞれ存続しています。

信用を失っても存続できるといった状況は責任感を失わせると思いました。そして,そのような「軽い」責任感では,また同じことを繰り返すことになるわけです。

信用を失っても,「言い逃れ」「言い訳」によって自己弁護をして,自己満足な責任を果たしたと言うだけで,済まそうとするのはいただけません。

2011年5月19日 (木)

国歌斉唱で起立しない人への橋下知事の処分について思うこと

国歌斉唱で起立しない今日職員は処分,公表等をされるとの条例案が出されたらしいです。

国歌斉唱で起立すべきか,そうではないか,それに対する処分はどうかということへの直接的な意見になるかどうかはわかりませんが,私なりに以前から思っていたことがあるので,それを書いてみたいと思います。

国歌斉唱で起立しないというのは,国歌として認めたくない気持ちの表れと思われます。日の丸に対しても様々な考えがあるのと同じではないかと思います。

その気持ちの面について,国歌・国旗をどう思おうが,それが国民意識レベルとしてどうかという部分は別問題として考えると,どう思おうが自由なのは憲法によって保障されています。

国歌・国旗を認めたくないと内心で思うのは自由なのです。

しかし,それを態度で表出する場合は,制限がかかってくると思います。基本的に人は自由な存在であっても,それは公共の福祉に影響を及ぼさないレベルではないといけないわけです。

また,国歌・国旗を認めたくないという態度が,他の人に不快な思いを抱かせる場合,自由と自由の衝突が起こります。その場合,現在ではこの民主主義のシステムの中で国歌・国旗として認められていう以上,不快な思いを抱く人の立場の方が尊重されるのかもしれません。

そして,その態度の表出を教職員が何らかの式典で行う場合はどうでしょう?教職員は自身がどういう思想を持つかは自由であることは当然です。

しかし,子どもたちに多くの知識を与え,その思想形成にも大きな影響を与える立場にある教職員がその思想表明を自由に行ってもいいかという点では疑問があります。

教職員という立場である以上,そのスタンスは中立を,それこそ異常なくらい中立なスタンスを意識していく必要があると思います。思想的に偏り,それをかたくなに主張し表明する人はやはり教職員としてはふさわしくない人ではないかと思われます。

先日,新しい海外映画の発表があり,その出演者から日本への励ましの言葉が送られてきました。また,海外のスポーツ選手からも励ましの言葉が多く送られてきています。その励ましの言葉が何に書かれていたか?それは日の丸の旗です。

海外の思いに従うというわけでは決してありませんが,現在ではそういった多くの認識が日本の象徴として日の丸や国歌を認めている状況にあります。

国際的な競技でも国歌斉唱・国旗掲揚は必ず行われ,国の象徴として当然のように扱われています。

子どもたちはそういう当たり前とも言える現況の中で生活しています。そんな中,何かしらの式典で自分のかかわっている先生がかたくなな態度を取っている場面をどういう思いで見るのでしょうか?

主張か?わがままか?その態度が子どもに何を与えるのか?

考えてほしいなぁ。

2011年5月13日 (金)

上原さんの自殺報道について思う孤独やさみしさについて

昨日,芸能人の上原さんが亡くなったとの報道がありました。現時点では自殺とのことで,冥福をお祈りします。

最近は海外も含めて,活躍中の芸能人などが自殺することをよく目にすることがあります。活躍中なので,生活苦での自殺とは違う要素を持っているのでしょう。

なので,生活苦にあえいでいる人からすれば,生活に困らないだけのお金があるのに理解できないということになるのかもしれません。

ただ,共通項はないわけではないと思われます。経済的貧困での生活苦の場合,一番の不安は先が見通せないことではないかと思われます。「この先どうすれば?」というものでしょう。

一方で,経済的に裕福であれば先が見通せない不安はないとは言い切れません。今回の場合でいえば,ブログに「孤独」や「さみしさ」を感じさせる発言が多くみられたとのことでした。結婚願望もその孤独感から逃れたい裏返しだったのかもしれません。

人は多くの不安に襲われ,ストレスを抱えながらもどうにか生活しております。そのストレスに勝つために,負けないために,人は人を頼ることもあります。

使い古された言葉ですが,人は一人では決して生きてはいけません。

そう考えた時に,自分の心の中の不安が「孤独」であったとき,その不安は,心の中で大きくなりこそすれ,小さくなれる要素はありません。「孤独」な不安なために,人に頼ることができない。つまり,「孤独」であるため,もしまた裏切られたらといった「孤独」の相乗効果となってしまうような出来事を起こさないためには,人は頼らないほうがいいのです。

なので,また一人で抱え込む。「本当の意味で自分を助けてくれる人」の存在を必死で望みながら,しかし,一方でその存在にめぐり合うためには人との関係づくりをしていかなければならないわけで,それが怖くてできない。

「孤独」の不安が根底になると「小さな裏切り」であっても「やっぱりか」と人間不信は強まってしまうわけです。

今朝,芸能人の内田さん逮捕のニュースが流れました。女性に対して交際を強要し,脅迫的な行動を取ったような報道がされていたと思います。

「孤独」の中,ある人の存在が「小さな光」であっても,自分の暗黒の孤独を照らす一筋の光として思えたとき,その人が唯一の存在に見え,何としてもその関係を継続しようとしてしまう。

一見わがままに見えるその行為も,実は「孤独」の海で溺れそうになっている者がわらをもつかむ思いで,後先考えず,行ってしまうこともあります。

上原さん,内田さんの報道やその事実は一切わかりませんが,芸能界って孤独でさみしいところなのかなぁと感じ,書いてみました。

また,自殺に関する報道については,それが与える社会的影響を考えながら,慎重に取り扱う必要があると思われます。

2011年4月29日 (金)

フィギュアは芸術とスポーツの融合だなぁと思いました。

昨日は男子のフィギュアスケートがありました。日本勢は銀メダルが最高となりました。

以前,私はフィギュアを見ていたときに,跳んだ!そして回った!といったスポーティな部分を楽しんでいました。間にあるスピンやステップはその○○アクセルとかいった山場のつなぎくらいといった感じで鑑賞していました。

ただ,そういった感じで見ていたその当時,(つい最近までなのですが…)なんとなく,衣装は違うものの,みんな同じに見えてしまい,見なくなっていました。

ところが,特に前回のオリンピックでのキムヨナ選手の滑りを見て,フィギュアの見方が変わりました。総合的な芸術性のようなものをすごく感じたのです。

当然,ジャンプや回転もありましたが,それよりもステップや表情,手の動き,体の動きなど,本当に見ごたえがありました。

たぶん,フィギュアのファンの方々は,それが,フィギュア何だと言われるかもしれません。ただ,ただのんびりとフィギュアを眺めていたにすぎない私には,それでもぐんぐん見てる人の感性に入り込んでくる,その演技にずいぶんと感心させられたものでした。

昨日のチャン選手もそうでした。細かい技術の素晴らしいのでしょうが,そういったことはよくわからない私にとって,「すばらしい」「感動した」といった余韻が残りました。

これまで,「いつジャンプする?」「いつ回転する」ばかりに目を奪われていた私ですが,彼女たちの演技が力づくで私の見方を変えてくれました。

今日,女子のフィギュアがあります。心と感性にズンズンと訴えかけられる衝撃をまた楽しみにしています。

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