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カテゴリー「福祉・人権」の記事

2011年9月24日 (土)

倉敷権利擁護フォーラムに行ってきました。

倉敷権利擁護フォーラムなるものに行ってきました。

メインのテーマは市民後見。

高齢化社会の中で後見人の役割は重要になってくると思われます。その中で市民がお互いに支えあおうという市民後見という仕組み。

理屈の上ではわかりましたが,今一歩,私の気持ちの中にすとんと落ちるものはありませんでした。

後見人の役割は大きく身上監護と財産管理に分かれるとものの本には書かれてあります。しかし,その具体的内容については個々のケースにゆだねられています。つまり,これといったマニュアルがないわけです。

私自身も後見人をしており,実践研修のようなものにも参加させていただいていますが,福祉と本人,環境等を十分に理解したうえで,イニシアチブをとりながら実践されているケースはあまり耳にしません。

「専門職による後見」という言葉は聞くのですが,「後見の専門家」という言葉はあまり聞きません。

私見ですが,後見業務の世界はなんとも「ファジー:古い言葉ですが」な世界なのです。そういったあいまいな世界にいわゆる「市民」という素人を参入させる。

素人というのは失礼な言い方ですが,介護者の方たちは3ヶ月~6ヶ月くらいの学習・実習期間を経ておられます。市民後見人は「人生に関わる」にもかかわらず,1カ月程度の学習期間,それも実習期間も非常に短いわけで,そういう意味では素人であるといえるのではないでしょうか?

さらに,無報酬。

無償で行うことで,被後見人とは対等とは言えない立場になってしまいます。

市民後見人はこれから必要となりますと言いますが,これからの高齢化社会に向けて安く使える後見人が必要となるのではなく,地域コミュニティーを活性化する役割をも果たす可能性のある市民後見人とするには,専門職自身がもっと後見制度,後見人の役割と業務などをしっかりと認識・学習する必要があると改めて思いました。

がんばります。

2011年7月15日 (金)

人それぞれに生きる道

昨日,兵庫県の芦屋と西宮にある権利擁護センターへ見学・研修に行ってきました。私が事務所を構える倉敷市でもそのようなセンターを作る動きがあるようで,その実行部隊によって計画された研修会に便乗させてもらった形です。

それはそれで,勉強になりました。

ただ,私の気持ちは違う部分にとらわれ続けていました。

ここ,岡山県に比べて,兵庫県は人口が多いため,神戸などの都会に行くと,大きなマンションがたくさん建っていました。

阪神大震災から,みごとな復興を遂げた町は,そこに住む人たち一人一人のエネルギーによって支えられているんだろうなと感じました。

大きなマンションを見ると,ベランダに生活を感じさせる洗濯物や布団など干されています。あの窓の中,一つ一つに生活があるんだなとつくづく感じ,そこで生活する一人ひとりにまた人生がある。

あの大きなマンションの中にはどれだけの人生が詰まっているのだろう。たぶん,その人生を形であらわすことができれば,あのマンションには入りきれないだろう。

一人ひとりが,自分が主役の人生を,生活の舞台の中で演じている。過ごしている。

権利擁護とはそのとてつもなく広いそれぞれの人生を理解し,守っていくこと。

私は何と,とてつもない際限のない世界に足を踏み入れようとしているのだろう。

プロの後見人として,また気持ちが引き締められた,バスの中での出来事でした。

2011年6月 1日 (水)

虐待の防止について

虐待による事件が後を絶たない状況が続いています。親族による高齢者虐待,親による子どもの虐待,施設等での虐待,ほとんど毎日のようにニュースが流れています。

先日,岡山市でも虐待の疑いにより16歳の高校生が亡くなりました。

気になるのは,例えば,老老介護等での介護疲れの中で引き起こされた殺人などで,一方的に加害者が非難されるのではなく,同情される面もあるということです。

もちろん,大変な状況の中での介護は想像を絶するものであると思われます。しかし,人を殺める行為はほんの少しでも「しょうがないか…」と思ってはならないと思います。

加害者が同情されることで,自分も社会的被害者であったとの意識が芽生えるかもしれません。そしてその芽生えは,起こしてしまった加害者の人でなく,現時点で介護等に追われている人の心に植えつけられることもあるでしょう。

今回の岡山市の事件では,本人の自傷行為をやめさせるために手足を縛ったという供述があったと新聞で報道されていました。しつけのために暴力を振るったという点もあったと思います。

誰でも,そのような行為が容認されるとは思っていないでしょう。しかし,自分の能力値を越えた現実が目の前にある時,「力ずく」な行為に走ってしまうもの現実でしょう。これを「しょうがない…」「いけないことだけど,気持ちはわからないでもない」と同情的に容認してしまうと,虐待は亡くならないと思われます。

個人等の対応でのその能力値を超えた場合には,やはり,社会がそれを支えていくほかはないのではないでしょうか?

役所は「事件が起こらないと動いてくれない」と言われることもあったようですが,現在は迅速に動く体制があるのではないのですか?事前相談,予防的措置を専門家がきちんと対応し,アドバイスできるような体制を一刻も早く作ってほしいと思います。

必要なのは加害者に対する罰ではく,救済的措置だと思われます。

2011年5月31日 (火)

君が代斉唱起立命令「合憲」判決について思うこと

今回の判決についてよく言われていることは「思想・良心の自由」の制約について出と思います。思想の自由は内なる部分では完全なる自由であってこれを誰かが制約することは違憲である前に,非常に困難であると思われます。

そして,「思想・良心の自由」はその内面にとどめ置く場合については何ら制約なく認められる自由と考えられます。

しかし,それが外部へ表出される場合,それは場合によって何らなの制約を受けることになります。

誰かを好きになり,その気持ちが心全体に広がっていても,それはその人の自由の範囲でしょう。しかし,その思いが高じてストーカーまがいの態度として表出されると,これは相手への影響も考えて,制約せざるを得ない場面が出てきます。

それでは今回の起立命令がそういった制約せざるを得ない場面であるかどうかが問われると思われます。最近はこういった内容の条例が大阪府で提案されているとも聞きます。

私自身は,公務員は様々な思想に対して中立的な立場を表出すべきではないかと考えています。

かといって過度にその立場をかたくなに守らせようとするのはどうかとも思われます。

そういった両面から考えて,今回は学校という教育現場で行われる表出活動はこの場合制約が必要かということです。

私が親として,自分の子どもの担任の先生だけ,かたくなにそのような態度をとっていたとしたら,「この場面でここまでの態度をとるということはかなり,思想的に偏っておられる。担任の先生として心配だなぁ」と素直に思うと思われます。

一方で,そのような態度を全然見せないまま,例えば,違う保護者から,「あの人はご自身の経験や思いなんかで,君が代には反対されていて,いろいろと仲間内で勉強されて,国等にも意見を出しているらしいよ。でも,この場において自分を出すのは間違いだから,自分の中で区別されて行動されているらしいよ」と聞くと,頑張っておられるんだなぁと素直に思うと思われます。

教育者である前に思想をもった個人であることは理解できます。しかし,教育の場においては教育者として子どもに与える影響を考えて行動してほしいと思いました。

2011年5月30日 (月)

障がいのある人にとって暮らすことの大変さ

今まで,私は障がいのある人やその家族の方々と出会いながら,その障がいそのものと向き合っていくことの大変さをつくづく感じさせられてきました。

障がいの状態が重度になると「生きる」といった命そのものについて常につきつけられながら生活していかねばならないこともあります。

「子どもが生まれた時,野原を駆け回り,ブランコを元気に漕いで,またある時は遊園地でメリーゴーランドに乗る。そんな夢を描いていましたが,うちの子は難しいようです」

と言われていた母親の言葉がありました。その子は呼吸器管理されていて,外出自体が難しい様子でした。

「この子にも野原の空気を吸わせてやりたい,遊園地のにぎやかな雰囲気を味あわせたい」

そう思う一方で,感染したらどうしよう。急激な環境に変化に体がついていかなければ,今後の体調管理が非常に困難になる可能性もある。

願いと現実のはざまで,常に悩みと向き合わなければいけないのです。

しかし,それだけではありません。

先日,こんなことがありました。

重症の障がいのある方の車椅子作成をしようとした時のことです。車椅子の助成を受けるためには更生相談所の診断が必要です。

この診断は本人が更生相談所に行くのが困難な場合,訪問しての診断も可能となっています。

この方は車椅子乗車は可能ですが,座る姿勢を確保するための筋力が弱いため20分程度継続して車椅子に乗ることが難しい状況です。そこで,安定して座れる車椅子を作ろうとしているわけです。

そこで,現在入所している施設に,その旨を伝えたところ

「うちでは呼吸器管理をしている人以外は訪問を利用しないことになっていますので,相談所に行って下さい」

とのことです。来所か訪問かを決めるのは医師の意見書によって更生相談所が決めることになっています。施設がそんなことに口をはさむのは理解できませんでした。

「医師が判断することでしょう?」

そう言うと

「このくらいの人の状態で意見書を書くと,うちに医師が更生相談所から悪く思われる可能性がある」

とのことでした。更生相談所までは30分はかかります。そして,そこでも40分以上は診断等に時間を要するとのことです。

その人は施設の行事(2時間程度の)にも20分程度しか参加できません。それ以上の時間,車椅子に乗っての参加が難しいからです。しかし,早くとも2時間近くかかるかもしれない,その診断には行きなさいとのこと。それは,施設が更生相談所から指摘されるかもしれないのでそれが嫌だから。

どこを向いているのでしょう?

まだまだ,バリアの多い社会の中で,生きていくのは大変です。それなのに,一番近くにいるはずの施設の方がさらに無理を押しつけてくる。理解のない環境の中では暮らすことだけでも大変です。



2011年5月25日 (水)

最近の報道から考えた信用と責任

昨日,地元岡山県で高校生が母親の虐待の疑いによって死亡したとの報道がありました。その報道を見て,先日高校を卒業したばかりの人がこう言いました。

「この学校信用なくしたね」

児童相談所にも相談を持ちかけていた。それも母親が,です。学校では母親から暴力を受けていた事実をつかんでいたとの報道もありました。

相談をされるのは信用されていたからでしょう。しかし,その信用を裏切る結果になってしまった。その結果として人が亡くなってしまいました。

この責任はだれが取るのでしょう?虐待死が事実であった場合に,それを見過ごしてしまった学校と児童相談所はどのような責任を取るのか?この結果に対しての責任をどう考えるのか?

少し前に「ユッケ中毒事件」がありました。この会社は信用を失い,当然に賠償も行い,焼肉屋の存続など考えている場合ではない状態であると思います。社長も会社も責任を取ってしかるべきだからです。この焼肉屋は信用をなくし,存続はできなくなるかもしれません。

しかし,これが結果責任であると思います。雪印も信用を失い,不二家も信用を失いました。そして当然に社会的責任をとることになりました。吉兆庵もしかり。

しかし,児童相談所と学校は存続することでしょう。その存続を脅かすほどの責任を追及されないからでしょうか?

そして,原発の事故。政府も東電も完全に信用を失っている状態であると思います。しかし,それぞれ存続しています。

信用を失っても存続できるといった状況は責任感を失わせると思いました。そして,そのような「軽い」責任感では,また同じことを繰り返すことになるわけです。

信用を失っても,「言い逃れ」「言い訳」によって自己弁護をして,自己満足な責任を果たしたと言うだけで,済まそうとするのはいただけません。

2011年5月24日 (火)

夫婦の問題編~有責配偶者ともう一方の配偶者からの離婚請求!?~

このところ時事の話題について触れることが続いていたので,本業に戻って,夫婦の問題について,判例をもとに書いてみたいと思います。

今回は,一般的に認められにくい,有責配偶者からの離婚請求であっても,もう一方の配偶者からの離婚請求も重なったために認められたという事例です。

結婚後1年。夫婦は長男に恵まれました。しかし,そのころから妻と夫の母親の仲が悪くなってきました。いわゆる嫁姑問題ですね。

ただ,夫婦間の仲はさほど悪くなかったようで,さらに2年後には長女にも恵まれることになります。そしてなぜか,それを機に,夫の両親,妹と同居するようになります。

予想通り,以前から仲の悪かった妻と夫の母親の関係は同居によってさらに悪化することになりました。それなら同居しなければいいのですが,そのあたりに夫のどういった働きかけがあったのか…。

実は,夫は母親側につき,妻をかばうどころか,妻が別居したくなるように仕向けるような行動をとっていたのです。そうなると,夫の両親,夫の妹という状況の中では,嫁はいわゆるアウェー状態であるわけで,孤立状況となってしまいます。そのため,夫と妻は家庭内別居状態となってしまいました。。

半年後,夫婦間で離婚についての話し合いがもたれました。しかし,結論は出ず,結局妻は実家に帰ることになります。単に二人が離れるだけならここで成立したかもしれません。しかし,離婚には気持ちの問題と,一方でおかねの問題が絡んできます。ここで同意できなければ,顔を見たくなくても離婚はできないという構図も出来上がってきます。

別居中,夫は妻への生活費の支払いを拒み,その状態が8年間続きます。婚姻費用の分担義務を考えれば,妻は夫に対して,生活費の請求をできたものと思われますが,勝手に出て行った妻に対して,支払う義務はないというのが夫の考えでしょうか?

その後,とうとう夫婦双方から離婚請求がなされました。

この場合,有責配偶者(悪意の遺棄,協力扶助義務違反)である夫からの離婚請求は一般的に認められないのですが,妻からも離婚請求がなされており,婚姻を継続しがたい重大な事由があるとして,双方からの離婚請求が認められました。

気になるお金のことですが,これは今から40年ほど前の判例ですので,額が大きいのか少ないのかよくわかりませんが,夫から妻に対して慰謝料が30万円支払われました。

2011年5月23日 (月)

建設的で進歩的な国会審議を希望しています。

大物芸能人が亡くなり,有名元アイドルグループの方が婚約を発表したり,日中韓の首脳が会談したりと様々なニュースが流れる中で,でも,震災にかかわるニュースは依然として多くの時間を占めています。その中でも最近(以前から)も原発が大いに注目されている状況は変わりません。

今日より,復興支援に関する国会(委員会)の審議が始まるそうです。その中で建設的で進歩的な国会審議を希望します。

そんな中,「海水注入中断」に関して,誰が入れるなと言った,言っていないなどでまたもや対策への取り組みにおいて足並みがそろっていなかったことが露見しました。。

この件に関して,野党は今国会で追及するでしょう。原発対策への取り組みでの不手際ということで追及しないわけにはいかないと思われますが,その追及で対策への取り組みが足踏み状態にならないようにしていただきたいです。

風評被害を抑えようとする動きの中で,風評被害が出ることで地元からの補償を求める声が上がるのは確実であり,その補償額を抑えるために国を挙げて放射能を含んだ作物を国民に食べさせようとしているとの混乱に満ちた意見も出ているようです。

与党から離党者も出ようとしている様子。

今はもめている場合じゃないと思います。しかし,対策の不備を指摘せずしては前に進めない。そのあたりは当然であると思います。

ただ,この混乱はそれらだけではなく,誰か,どこかが,かたくなに保身ばかり考えながら動いている,発言しているのも原因の一つではないかと思われて仕方がないのです。

2011年5月20日 (金)

誰の保身が優先されているのか?一連の震災関連報道で思うこと

このところ,震災の報道は毎日行われています。被災地の生活や放射能漏れなど,本当に今回の震災の災害の大きさや,その社会に及ぼした影響の大きさの感じさせられます。

そんな報道を見ていて,ふと,微妙なバランスがとられている?と感じました。

例えば東電。多くの被害を生みだしました。賠償責任も出てくることだと思われます。多くが東電を非難する傾向にあると思われます。

その一方で東電の赤字が発表されました。「東電自身も被害を受けている。さらにいろいろしているから赤字になってしまう」ようなメッセージであるとらえる方法もあるなぁと。

原発に関しても,放射能の影響等を人知,人力で抑え込むことができないことが明白になってきている一方で,原子力発電を停止したら,困るのは住民たちであるといった情報も見まれます。

東電の赤字と言っても,自身によって,放射能によってすべてを失った人,それらの人たちの受けた経済的な影響を考えると,そちらの方が大きいのではないかと思われます。

今回の地震,放射性物質等の震災に絡んだ住民が被った被害総額はどれくらいになるのでしょうか?農家の人の影響,漁業の人の影響など部分部分ではある程度の情報が流れている物と思われますが,例えば,現地の工場が破壊されて,他に工場を建てる,また,破壊された工場の労働者を迎え入れるための費用,車などの家財等を失った人の被害,タンス預金が流されたというのもあります。

誰が何をしたからこういう結果になったのか?

本当に自然だけが加害者なのか?

被害の総額などをきちんと出して,その状況を生み出した責任はどこにあるのかをしっかりと表に出してほしいと思いました。

2011年5月19日 (木)

国歌斉唱で起立しない人への橋下知事の処分について思うこと

国歌斉唱で起立しない今日職員は処分,公表等をされるとの条例案が出されたらしいです。

国歌斉唱で起立すべきか,そうではないか,それに対する処分はどうかということへの直接的な意見になるかどうかはわかりませんが,私なりに以前から思っていたことがあるので,それを書いてみたいと思います。

国歌斉唱で起立しないというのは,国歌として認めたくない気持ちの表れと思われます。日の丸に対しても様々な考えがあるのと同じではないかと思います。

その気持ちの面について,国歌・国旗をどう思おうが,それが国民意識レベルとしてどうかという部分は別問題として考えると,どう思おうが自由なのは憲法によって保障されています。

国歌・国旗を認めたくないと内心で思うのは自由なのです。

しかし,それを態度で表出する場合は,制限がかかってくると思います。基本的に人は自由な存在であっても,それは公共の福祉に影響を及ぼさないレベルではないといけないわけです。

また,国歌・国旗を認めたくないという態度が,他の人に不快な思いを抱かせる場合,自由と自由の衝突が起こります。その場合,現在ではこの民主主義のシステムの中で国歌・国旗として認められていう以上,不快な思いを抱く人の立場の方が尊重されるのかもしれません。

そして,その態度の表出を教職員が何らかの式典で行う場合はどうでしょう?教職員は自身がどういう思想を持つかは自由であることは当然です。

しかし,子どもたちに多くの知識を与え,その思想形成にも大きな影響を与える立場にある教職員がその思想表明を自由に行ってもいいかという点では疑問があります。

教職員という立場である以上,そのスタンスは中立を,それこそ異常なくらい中立なスタンスを意識していく必要があると思います。思想的に偏り,それをかたくなに主張し表明する人はやはり教職員としてはふさわしくない人ではないかと思われます。

先日,新しい海外映画の発表があり,その出演者から日本への励ましの言葉が送られてきました。また,海外のスポーツ選手からも励ましの言葉が多く送られてきています。その励ましの言葉が何に書かれていたか?それは日の丸の旗です。

海外の思いに従うというわけでは決してありませんが,現在ではそういった多くの認識が日本の象徴として日の丸や国歌を認めている状況にあります。

国際的な競技でも国歌斉唱・国旗掲揚は必ず行われ,国の象徴として当然のように扱われています。

子どもたちはそういう当たり前とも言える現況の中で生活しています。そんな中,何かしらの式典で自分のかかわっている先生がかたくなな態度を取っている場面をどういう思いで見るのでしょうか?

主張か?わがままか?その態度が子どもに何を与えるのか?

考えてほしいなぁ。

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